3/31
終了宣言しましたが、年度末なので一点だけ(てゆーか、明日書いたらネタだと誤解されかねない(笑))。
いつまでも信長さんちにいすわってる初音の「あまりにも唐突な」衣装ですが、NHKの大河サイトもまったく触れていないので指摘しておきます。
一応、デザインとしては間違っておらず、襟ぐりが若干広いような気もしますが、16世紀初頭風にはまとまっていました。が、それはイタリアの上流婦人の衣装としての話。スペインあたりだともっと露出が少ないですし、フランス以北だと首から上しか出していないはずです。ま、色が南国風というかルネサンス絵画風なので、それでもまあいいやな感じではありますが、イタリア諸国が力を失った16世紀後半からはフランス以北の露出が少ないものが主流になっていて、しかも宣教師なんかがセレクトして献上するようなものであれば、より禁欲的であってよいはず。もっと地味な色で露出が少ないほうが自然ではないかと思うんですがね。
さて、初っ端の柿崎晴家の奮戦ですが、一見ゾンビのような剛勇に見えて、実はあんなもので普通だろうという印象でした。なぜかというと、景勝方は全員平服で、一方の晴家らは甲冑に身を固めた完全武装だからです。切っても刃が立ちませんから、よってたかって突くしかないわけで、それが成功するまではあんなもんです、きっと。
というわけで、意図せぬ演出が意外にリアルな雰囲気を出していたものの、その分だけ晴家の豪傑ぶりは割り引かれる結果になってしまったのでした。
本曲輪占拠にいたる経緯はかなりひどいです。というより、中身のない「義」を連呼してきた揚げ句の自縄自縛という印象ですな。惣右衛門さんが実は軍事面でも使える人であることをようやく表に出してきたことくらいですかね、特筆できるのは。
しかし、さらにひどいのはその実行段階。兄弟二人で占領できる本丸って、どんなやねん(^_^;。しかも、加勢でやってきたのは泉沢ら三人(四人だったかな?)のみ。どんな本丸じゃっつーの。
ふざけているのは景虎方もいっしょで、松明が多い割にはえらい少人数で来てました。どっちも松明で水増ししていたわけですかね。
で、いよいよ見せ場になるはずにもかかわらず、相変わらず上条政繁は無視ですな。景勝の姉婿で景虎とも義理の兄弟に当たり、景勝政権序盤で軍事・外交を主導した兼続以上に重要な人物だったんですけどねえ。
謙信が倒れた日と死んだ日以外はすべて嘘で塗り固めたような内容なので、とやかく言っても始まらないですが、スルーすると書くことがなくなるので要点のみ列挙。
倒れるまでのこの年の謙信の健康状態については前回の分に書きましたが、実はそれ以前から謙信は病がちな人で、永祿8年以降は歩行時に片足を引きずる状態でした。戦場で青竹の杖を常用したのもこの頃からのことです。なので、倒れる前の謙信が元気いっぱいだったみたいな表現はすべて嘘。
謙信没後、景虎と景勝を前に群臣激論の様相でしたが、こういう事態になる以前、景勝は先手を打ってさっさと春日山城本曲輪(実城)を占拠してしまっているので(次回はその話になるようですが)、たぶんこんなこたあなかったでしょう。
謙信逝去時点の景虎と景勝の邸ですが、ともに二の曲輪とする説があります。しかしながら、実城占拠で景勝が先手を打てたことや、中城様と呼ばれていたことなどから、実際に当時二の曲輪に起居していたのは景勝であったと考えられます。
景勝の邸は当初景虎のために建てられ、その後景虎が御館に移ったために景勝に譲られた、と解釈したほうが自然で、したがって謙信逝去のときには、景勝は春日山城内に、景虎は城下の御館にいたと考えられます。そしてそう考えれば、景勝は越後守護上杉家の後継者として謙信と同居し、景虎は関東管領山内上杉家の後継者として上杉憲政と同居していたという図式になり、御館の乱の対立構造の本質が見えやすくなるわけです。
なお、景虎が本曲輪入城を阻まれて二の曲輪から退去したとされていることについては、次回の感想で触れることにします。
柿崎晴家が景虎派の有力者として描かれていましたが、晴家は景虎と交換で後北條家の人質になっていた時期があり、たしかにまったく縁がないとはいえない関係にありました。しかしながら、一応は子(前回書いたように弟説もあります)の憲家が家督を安堵されており、柿崎家が景虎派であった可能性はそれほど高くはないと思われます。むしろ、晴家は御館の乱直前か序盤に景虎派に殺害されてしまい、肝心なときに御館の後方(柿崎家の広大な所領は御館の東に位置していました)を遮断することができず、十分な軍功を担保できなかっただけではないかと思うのですが……。
遠山康光が景虎を頼って越後に来たというのは大嘘です。康光は最初から景虎にしたがって来越した側近のひとりで、当初から景虎の重臣でした。
そんなわけで、政争のバックボーンに取り入れるにはかっこうのネタが山ほどあるにもかかわらず、大河では「嘘も方便」な戯言をあれこれ並べるに止まり、イマイチどころかイマサンくらいのしまらない話にしてしまっているわけです。ああ、もったいない。
ひさしぶりに当日書いてしまいますですよ。
手取川で「激しい雨」を利用して大勝した上杉勢。でも、雨除けが役に立たないほどの雨には見えませんでしたが。それに、追撃しない上杉勢を不思議がっているように描いていましたが、織田勢の後退を阻んだ増水は、同じように上杉勢の進撃も阻むわけで、そういう意味ではちっとも不思議じゃないですが。
そういえば、秀吉ってこの時期は蟄居してませんかね。信長のそばで小姓の真似事をしていましたが。もしかして、長浜で宴会するかわりに出張ホストですかね。
さて、年が変わって天正6年、謙信はちょっとふらついたりしていましたが、3月になっても相変わらず元気ですね。実際には、2月中旬には遠出が不可能な病状となっていたはずですが。しかも、倒れたのは厠じゃなくて毘沙門堂(洞)。厠はイメージダウンだから避けたいってことですかね。
書くのを忘れていたので追加。
織田勢の鉄炮を3000挺とか言っていましたが、兵力が3万ならそのくらいあっても不思議ではないでしょう。だからそれはどうでもよいのですが、問題なのは上杉勢の人数。1万3000人しかいなかったことになっていましたね。さすがに半分以下だと勝てないと思いますが。それに七尾城を囲んだ兵力がすでにもっと多かったような気がしますが。なおかつ、例によって景虎以下いないはずの人たちが大勢参加してその人数ですか?みたいな疑問が非常に強い設定なんですけど。
ところで、柿崎晴家が参加していたようですが、晴家は天正5年に信長への内通を疑われて処刑されたとか、同じ時期に病死したとか、いろいろと説がある人です。「柿崎系図」に天正6年没とあるのを採用したんでしょうかね。私はこの天正6年説を支持しているので、それ自体に異論があるわけではないですが、全体に不合理な設定が多い中、唐突に合理的な解釈を差し挟まれると、かえって違和感があるんですが……。
兼続は前回から引き続き蟄居中とのことですが、北高全祝に預けられた形になっているようで、しかも全祝の判断で出入り自由みたいな様子。どうせ作り話だからどうでもよいことですが、普通の蟄居とはかなり違うようです。
ま、それはそれとして、上杉景虎は相変わらず越中に出陣していますね。このまま最後まで行っちゃいそうですが、そうなると御館の乱での派閥分けから組織論的裏付けが失われてしまう気がするんですけど。
で、直江景綱が死没。
直江家は府内長尾家の直属家臣でも比較的早い段階で城主化していますが、分類上は三条城代の山吉家(直江家と並ぶ府内長尾家直属の重臣)や栃尾城代の本庄家(古志長尾家譜代から謙信の譜代衆に昇格)と同じ譜代衆に属していました。これに山本圭さんの吉江家などが加わって譜代の馬廻衆(謙信の親衛部隊)を形成していたわけで、景綱と本庄宗緩(大河ではスルーされている人)の死は御館の乱での馬廻衆の分裂抗争に小さくない影響を及ぼしていると考えられるのですが、そのへんにはたぶんまったく触れないんでしょうな。
そういえば、能登七尾の開城時に謙信は畠山家の遺児を連れ帰っているはずですが、それもスルー。上条政繁はどこまでも無視されてしまうんですかねえ。
再放送を観ることができれば、もう少し何か書くでしょう。
2/22
つづき書きました。→『上杉謙信によろしく』(『天地人』)第7回のつづき
ので、以下は予告の感想です。
正直な話、なぜこういう設定にしたがるのかさっぱりわかりませんが、もしかしたら兼続は戦下手ということで押し通すつもりですかね。兼続の戦下手(というより攻撃下手)は私にとってはかなり自明ですが、一般論としては非常にひねくれた解釈ですし、なにより臆病というのは戦下手とイコールになりません。
逆に、臆病だから周到で入念な戦上手になった、という流れを想定している可能性もあります。実際に観ていない(原作も読んでいない)ので、あるいはこの流れに重大な支障をきたすような展開であったかもしれず、あくまでも仮説としてはそんなのもありうるかという程度ですが。
そんなわけで、予告は非常にマイナスイメージが強い作りになっていたと思います。いくら現代的価値観に偏向しがちなTV業界にしても、程度というものがあります。某民放の某医療ドラマ(深夜枠で再放送している漫画原作のあれ)でヘタレ馬鹿研修医を演じた妻夫木だけに、印象がダブって甚だしく気持ち悪いです。
八つ当たりでさらに追加。
この嫌な雰囲気が第7回以降も続くようなら、タイトルは『天地人』ではなく『上杉謙信によろしく』と呼称することにします。ふざけんなNHK。
薄らいだ中でなぜか印象に残っているのが、兼続が信長に拝謁した物置みたいな部屋。対面自体は嘘っぱちなので、兼続の外交音痴っぷりは伏線か?みたいな突っ込みはしても無意味だと思いますが、フルプレートアーマーが鎮座ましましていたのは非常に気になりました。
フルプレートアーマーは完全なオーダーメイドで、ちょっとでも寸法が合わなければ着用できませんから、贈答品の場合でも事前に採寸して工房に発注しなければなりません。しかも、16世紀後半には実用品ではなくなりつつありました。大層重くて息苦しい割に、その苦行と引き換えに得られるのはちょっとした見栄えのよさだけで、銃弾に対して十分な防備にはならなかったからです。
なので、そんな物を手間暇かけてヨーロッパから取り寄せ、信長に進呈するというのは、コスト面でまったくメリットがないと思うわけです。
実際、現存する南蛮具足は、おそらく胸甲(胴の部分)と兜(フルフェイスではない椎の実型のやつ)を改造したものと考えられ、フルプレートアーマーをばらして使ったとは思えない形状をしています。
もらう信長にしても、非実用的なフルプレートアーマーなどをもらうより、同じ値段で西洋馬(アラブ種とかがメインだったようですが)を買えるだけ買ってきてくれたほうがよほど喜んだでしょう。
というわけで、ちょっとありえねえ光景だったので、印象に残りました。
ほかにもごちゃごちゃとやっていたようですが、全部フィクションだから笑って流しました。
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