Page: 1/2   >>
赤髭帝作戦から77年

て、キリが悪くてメモリアルっぽくないですな。友人は盛り上がってましたが。

なので、再来週の城砦作戦75年のほうがまだしもだと思います。

ちなみに、ナポレオンのロシア侵攻から206年……これもキリが悪い(−"−;)。

さらに言えば、ナポレオンの二度目の退位から203年……これもダメだな(´・_・`)。

 

そんなわけで終日盛り上がらず、かつ明日の準備も進まないままおしまいなのでした。

| 書いている人 | 23:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
ワーテルローから203年

なんてことは実はどうでもよくて、先日の頂き物で私が持っていても意味がない分をGt先輩にお裾分けすべく、7時前に家を出て池袋へ。

と言っても待ち合わせ自体は10時30分の約束で、7時前に出たのは一度旧宅に戻るためと通勤通学ラッシュを避けるため。

ま、ほとんど意味なかったんですけどね。本気でラッシュを避けるなら6時台の電車じゃないと手遅れなので。

 

そんなわけで、微妙に空いてはいる混雑というのか、甚だ中途半端に揉まれて池袋到着。旧宅に着いてすぐくらいに近畿の地震のニュースが入り、なんだか凄いことになっていることを知りました。

さっそくKnbアニイに様子を問い合わせてみたところ、とりあえず無事だったのでよかったです。かなり大きな地震だった割には人的被害が少ないようですが、後になって追い追い増えるなんてのはよくあること。最小限で済むとよいんですがね。

 

その後、Gt先輩からすでに待ち合わせ場所に到着している旨のLINEあり。何それ、まだ10時過ぎたばっかじゃん(ー ー;)。

慌てず予定の時間に出発して10分前現着。プライベートはこんなもんで十分です。

私にとっての不用品は先輩にとってはとても重要とのこと。喜んでもらえて、めでたし、めでたし。

 

無事に引き渡しを終えて旧宅に戻り、またちょっとニュースを見たりしながら荷物をまとめて15時に撤収開始。中学生の頃から使っているナイフと大人になってから買ったナイフ、オッサン最盛期に買った高いナイフ、持ち歩いてなくしても惜しくないように買った100均のナイフなど、デザインナイフやカッターナイフをまとめてごっそり移送しました。これでちょっと作業効率が上がるはず。

 

夜は金にならない系の研究事案をいくつか片付け、やはり金にならない系の文章をいくつか書き足していたら23時を過ぎてしまったので、もう終業準備して寝ます。

| 書いている人 | 23:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
十六世紀史研究学会 第24回研究会参加

第24回研究会(史跡見学会)に参加しました。

 

西武新宿線新井薬師前駅に集合して、まずはお願いしてあった『戦国・織豊期の諸問題』と『織田権力の構造と展開』を受領。いつでもどこでも現金清算であります。

 

さて、肝心の史跡見学ですが、そこから新井薬師→哲学堂公園→林芙美子記念館→瑠璃山薬王院→おとめ山公園→鬼子母神→法明寺というルートで、妙正寺川渓谷から目白崖線に沿って武蔵国豊島郡高田村を西から東へほぼ横断した感じ。私にとっては小中学生時代の活動エリアにスッポリ収まる隣近所でしたが、中までは入ったことがないところが多く、よく知っているのに知らない場所を巡るという、既視感とはベクトルが逆方向の不思議な感覚を体験してきました。

 

が、申し込み段階で危惧していたように、時間切れで早稲田方面はカット。惜しいことをしました。

 

ちなみに、私が近隣で一番注目しているのは新青梅街道と目白通りに挟まれた一帯に広がる沼袋・江古田原古戦場の史跡で、地形的な視点からの戦闘経過の復原も含めて、そのうち原稿にまとめたいと思っています。前に太田道灌書いたときはさらっと流しちゃったんで。

 

 

| 書いている人 | 23:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
十六世紀史研究学会 第24回研究会に参加予定

ちょっと迷ったけど歴史カテゴリーにしておきます。

 

5月26日の十六世紀史研究学会の第24回研究会について、渡邊大門先生に一筆書きルートを提案してみましたw

というのも、見学候補地をすべて廻るのは時間的にやや厳しいように思われたからです。地元なのに行ったことがないポイント多数だったことに加え、集合地点から類推して後半になると思われる地域にここは外せないかもな場所があったので、なるべく楽して多く廻りたいみたいな下心もありです(^_^;)

 

当日が曇天だとイイんですけどね。けっこう上り坂が多いので。

 

※ 見出しとかちょこちょこ直しました(^_^;)

| 書いている人 | 23:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
70年前のお話

これらのメモも意味不明。寄せていたら行頭スペースが飛んでしまったけど何故でしょうね。

 

70年前の8月21日は、ガダルカナル島で一木支隊第一梯団が全滅した日である。

米海兵隊第1師団の戦闘記録によると戦闘終了時刻は1942年(昭和17年)8月21日の午後5時頃だが、一木支隊第一梯団はそれ以前、午後3時頃にはすでに潰滅状態となっていた。

支隊長の一木清直大佐に率いられた第一梯団は、歩兵第28聯隊本部と第1大隊を基幹とする916名の大隊規模部隊である。駆逐艦輸送のため、重火器装備の隊はほとんどすべてが第二梯団に組み込まれていた。

これが総兵力でおよそ20倍余りにもなる米海兵隊第1師団の防御線に正面からまともに突撃し、その結果として全滅したことから、現在も無謀の一言で片付けられることが多い。

(この後、しかしで続ける予定を失念したようです)

 

70年前の昭和17年9月13日は、ガダルカナル島で川口支隊が夜襲を決行、飛行場奪還に失敗した日である。

 

この夜襲、当初は12日に予定されていたが、川口支隊側から7日朝になって13日に延期する旨を報告している。しかし同日夜、上級司令部(第17軍)から繰り上げ要請があり、元の12日に戻すという経緯があった。朝の段階で延期する必要がありながら、翌日の返電では元に戻したばかりか、前進路の状況次第でさらに一日繰り上げると報告している。不思議なやり取りであった。

もちろん、無理なものは無理をしても無理である。12日の予定は一部(歩兵第124聯隊第3大隊が米防御陣地に接触、銃砲撃を受けてジャングルまで撃退された)を除いて実現せず、13日の再度の夜襲も前日までに失った統制を回復できないまま、失敗に終わる。

 

ちなみに、川口支隊主力は上陸地点を8日の米軍の逆上陸に制圧され、ただでさえ少ない食糧が手持ちのみとなっていた。

| 書いている人 | 00:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
JR日暮里駅前の太田道灌像
 朝飯前に一仕事終えたので、食後はのんびり写真の整理などしてみたりして。

 というわけで、日曜日に日暮里まで食事に出たついでに撮ったやつです。



 この季節になると、曇天の夕方でもけっこう明るく撮れますね。
 なお、この角度で撮れる場所は横断歩道の中なので、よい子は真似してはいけません。
| 書いている人 | 08:51 | comments(2) | trackbacks(1) |
講演会拝聴
 本日は横浜根岸の馬の博物館で桐野作人先生の講演会を拝聴しました。いくつか質問したいネタがあったのですが、本筋と関係ないこともあり、一般の方の質問時間を使わせていただくのも申し訳ないので、あとで個人的に質問させていただこうかと思うとります。
 とゆーか、帰りに飲んだら質問内容忘れてしまいました(笑)。しばらくしたら思い出すでしょう。
| 書いている人 | 22:19 | comments(3) | trackbacks(0) |
型取り失敗
 斎藤道三と義龍の肖像の類似性を立体的に検証するという目的で、16分の1でまず道三の頭を作っていたわけですが、有識諸兄にご意見を頂戴すべく複製しようと土日に型取りを試み、あっけなく失敗しました。シリコーンゴムが古くなりすぎて、ちょっとやそっとの硬化剤では固まらないわけですよ、これが。いつまでたっても、どろどろのだまだま。
 おかげで、昨日は後始末が大変でした。捨てるのも一苦労です。
 天気のめぐり合わせも悪かったようで、気温で通常の1.5倍、古くなっているのでさらにその倍から3倍くらい混ぜたほうがよかったようです。つまり、指定されてる標準の5倍くらい混ぜなければならなかったようです。

 ところで、冒頭の話に戻って道三と義龍の肖像ですが、世間一般では似ていないといわれているあの有名な肖像、私には非常によく似ているように思えます。とくに、目と鼻の形と位置関係や髭の生え方なんかですね。そっくりだと思います。
 目立ちやすいあごの形が違うので似ていない印象が強いのかもしれませんが、当時の画法による類似を考慮してもなお、これを似ていないとするのは先入観の刷り込み効果に他ならないような気が。
| 書いている人 | 21:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
なにかのプロパガンダ?
 今さらこんなことこんなことを新発見みたいな切り口で取り上げるgooニュースって、なにを考えて記事をピックアップしているんでしょうね。
 しかも、ソースの時事通信社のほうは、サイトにこの記事を載せていないんですよね。うーむ、謎だ。
| 書いている人 | 20:04 | comments(2) | trackbacks(0) |
太田牛一は誰の家来か
 結局、確証がないので今回の原稿からは削ることになりそうですが、『公記』の首巻を読んでいると、太田牛一さんの所属がどうも怪しげです。この人、最初から信長の家来だったんでしょうかね。
 首巻に登場する牛一自身の事跡は、三王口から乞食村へ攻め入った柴田勝家勢に従軍した話が最初で、次は弓三張と鑓三本の六人衆に名を連ねた話です。素直に読むと、前者は牛一が勝家配下の足軽衆であるように見え、後者は勘十郎が降参したので信長に抜擢されたように見えます。
 このあたり、先日購入した歴読の別冊付録「信長記」の大研究では(1〜3章は役に立たないとか書いたくせにちゃっかり利用してますが)、勝家勢は信長の作戦に従事しており、ゆえに牛一らは信長が派遣した家来であるという解釈なのですが、どうも腑に落ちません。普通に考えれば、信長よりもまず勘十郎が勝家の手勢を補強するはずで、そう考えたほうが、勘十郎の降参後になって初めて牛一の信長家臣としての立場が明確になることとも符合します。
 さらにいえば、首巻の記事の時系列が勘十郎生害の記事の前後で入れ替わっているように見える点も、疑わしいといえば疑わしいわけです。
 もちろん、冒頭に書いた通り確証があるわけではなく、そう見えるとか、そう読めるとかいった類の、甚だ漠然とした話でしかないですし、そもそも牛一が誰の家臣だろうと大勢に影響はないですから、どうだっていいといえばそれまでなんですが、なーんか引っ掛かるんですよね、こういうのは。
| 書いている人 | 23:56 | comments(0) | trackbacks(0) |

Calendar

1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< July 2018 >>

Sponsored Links

Profile

Recommend

Search

Entry

Comment

Trackback

Archives

Category

Link

Feed

Others

無料ブログ作成サービス JUGEM

Mobile

qrcode