『天地人』第2回
2009.01.12 Monday | category:NHK大河
相変わらずキャスティングのみで引っ張る展開が続いており、なおかつ相変わらず演出的にどうよな部分も散見されますが、そこらへんは笑って流しておしまいです。
さて、景勝が生まれた上田長尾家については、越後長尾一族と同祖という説と、越後長尾一族の本家筋である上野長尾一族の白井長尾家から越後系とは別に分かれたという説がありますが、そんなこたあ景勝の時点ではどっちでも大差ないというか、当時あまり重視されていなかったし、そういう説もあるけどNHKは無視するらしいという程度のお話。
で、もう少し重要なのは、輝虎さんが喜平次をいつ養子にしたのか、という点についての設定上の矛盾です。というのも、喜平次が輝虎の養子になったのは永祿二年(1559)のこととされており、したがって喜平次がまだ卯松、輝虎がまだ長尾景虎だった頃のことになるからです。
実のところ、長尾政景の次男である喜平次は父と兄が存命中に輝虎の養子となった可能性が高いのではないか、と私は推定しており、そう考えるなら喜平次は上杉輝虎の養子ではなく、あくまでも府中長尾家の継嗣であったことになります。政景の死でいくぶん立場に変化が出たであろうことは間違いないと思いますが、より重要な変化は兄の死によって生じたはずであり、このあたりの微妙な人間関係と家臣団の席次などに対する影響の大きさを、大河ドラマの制約内で過不足なく描くのは非常に難しいでしょう。なので、こういう話がスルーされるのは至極もっともであり、その点でどうこう批判するつもりはないですが、喜平次を政景の死後に輝虎の養子にするという操作は、おそらく原作ではそれなりに効果があったであろうと想像されるものの、ドラマではほとんど意味がない、というか効果が出ていない気がします。てゆーか、かえって話がややこしげに見えてしまっているような……。
ちなみに、喜平次の諱は顕景で、上杉名字の使用と景勝への改名は天正三年(1575)1月以降である可能性が高く、したがって天正元年(1573)の時点ではまだ景勝でも上杉でもなかったと思われます。
もう少しドラマ本編の内容に関連した何かを付け加えようかと思って保存しておいたものの、忙しくて結局なにも思いつかなかったので、再放送が始まる前に公開することにしました。
さて、景勝が生まれた上田長尾家については、越後長尾一族と同祖という説と、越後長尾一族の本家筋である上野長尾一族の白井長尾家から越後系とは別に分かれたという説がありますが、そんなこたあ景勝の時点ではどっちでも大差ないというか、当時あまり重視されていなかったし、そういう説もあるけどNHKは無視するらしいという程度のお話。
で、もう少し重要なのは、輝虎さんが喜平次をいつ養子にしたのか、という点についての設定上の矛盾です。というのも、喜平次が輝虎の養子になったのは永祿二年(1559)のこととされており、したがって喜平次がまだ卯松、輝虎がまだ長尾景虎だった頃のことになるからです。
実のところ、長尾政景の次男である喜平次は父と兄が存命中に輝虎の養子となった可能性が高いのではないか、と私は推定しており、そう考えるなら喜平次は上杉輝虎の養子ではなく、あくまでも府中長尾家の継嗣であったことになります。政景の死でいくぶん立場に変化が出たであろうことは間違いないと思いますが、より重要な変化は兄の死によって生じたはずであり、このあたりの微妙な人間関係と家臣団の席次などに対する影響の大きさを、大河ドラマの制約内で過不足なく描くのは非常に難しいでしょう。なので、こういう話がスルーされるのは至極もっともであり、その点でどうこう批判するつもりはないですが、喜平次を政景の死後に輝虎の養子にするという操作は、おそらく原作ではそれなりに効果があったであろうと想像されるものの、ドラマではほとんど意味がない、というか効果が出ていない気がします。てゆーか、かえって話がややこしげに見えてしまっているような……。
ちなみに、喜平次の諱は顕景で、上杉名字の使用と景勝への改名は天正三年(1575)1月以降である可能性が高く、したがって天正元年(1573)の時点ではまだ景勝でも上杉でもなかったと思われます。
もう少しドラマ本編の内容に関連した何かを付け加えようかと思って保存しておいたものの、忙しくて結局なにも思いつかなかったので、再放送が始まる前に公開することにしました。
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