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『上杉謙信によろしく』(『天地人』)第13回
  というわけで、忙しいのにわざわざ観て感想を書くほどの内容ではないので、今回で終わりにします。軍事オンチのたわけた自己陶酔にしか見えないストーリーにはもう辟易しました。

3/31
 終了宣言しましたが、年度末なので一点だけ(てゆーか、明日書いたらネタだと誤解されかねない(笑))。
 いつまでも信長さんちにいすわってる初音の「あまりにも唐突な」衣装ですが、NHKの大河サイトもまったく触れていないので指摘しておきます。
 一応、デザインとしては間違っておらず、襟ぐりが若干広いような気もしますが、16世紀初頭風にはまとまっていました。が、それはイタリアの上流婦人の衣装としての話。スペインあたりだともっと露出が少ないですし、フランス以北だと首から上しか出していないはずです。ま、色が南国風というかルネサンス絵画風なので、それでもまあいいやな感じではありますが、イタリア諸国が力を失った16世紀後半からはフランス以北の露出が少ないものが主流になっていて、しかも宣教師なんかがセレクトして献上するようなものであれば、より禁欲的であってよいはず。もっと地味な色で露出が少ないほうが自然ではないかと思うんですがね。
| 書いている人 | 20:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
『上杉謙信によろしく』(『天地人』)第12回
  またしても本放送時に電話、再放送時に他出していたので、後半はほとんど意味不明。上条政繁が出ていたようですが、最近まで気がつきませんでした。
 基本的に景虎優位という流れにしたいようですが、国内勢力や府内での戦術的状況は景勝優位だったはずで、そこらへんになにか重大な誤解があるように見受けられますね。
| 書いている人 | 20:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
『上杉謙信によろしく』(『天地人』)第11回
  本放送は電話がかかってきて、再放送は外出していて、結局内容はよくわからずじまいでしたが、おそらくちゃんと観ていても意味不明だったろうと思います。
| 書いている人 | 20:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
『上杉謙信によろしく』(『天地人』)第10回
 忙しくて書く暇なんてないですが、次回放送が迫っているのでそうも言ってられません(笑)。

 さて、初っ端の柿崎晴家の奮戦ですが、一見ゾンビのような剛勇に見えて、実はあんなもので普通だろうという印象でした。なぜかというと、景勝方は全員平服で、一方の晴家らは甲冑に身を固めた完全武装だからです。切っても刃が立ちませんから、よってたかって突くしかないわけで、それが成功するまではあんなもんです、きっと。
 というわけで、意図せぬ演出が意外にリアルな雰囲気を出していたものの、その分だけ晴家の豪傑ぶりは割り引かれる結果になってしまったのでした。

 本曲輪占拠にいたる経緯はかなりひどいです。というより、中身のない「義」を連呼してきた揚げ句の自縄自縛という印象ですな。惣右衛門さんが実は軍事面でも使える人であることをようやく表に出してきたことくらいですかね、特筆できるのは。
 しかし、さらにひどいのはその実行段階。兄弟二人で占領できる本丸って、どんなやねん(^_^;。しかも、加勢でやってきたのは泉沢ら三人(四人だったかな?)のみ。どんな本丸じゃっつーの。
 ふざけているのは景虎方もいっしょで、松明が多い割にはえらい少人数で来てました。どっちも松明で水増ししていたわけですかね。

 で、いよいよ見せ場になるはずにもかかわらず、相変わらず上条政繁は無視ですな。景勝の姉婿で景虎とも義理の兄弟に当たり、景勝政権序盤で軍事・外交を主導した兼続以上に重要な人物だったんですけどねえ。
| 書いている人 | 15:47 | comments(2) | trackbacks(0) |
『上杉謙信によろしく』(『天地人』)第9回
  一応、今回も当日です。再放送の(笑)。

 謙信が倒れた日と死んだ日以外はすべて嘘で塗り固めたような内容なので、とやかく言っても始まらないですが、スルーすると書くことがなくなるので要点のみ列挙。

 倒れるまでのこの年の謙信の健康状態については前回の分に書きましたが、実はそれ以前から謙信は病がちな人で、永祿8年以降は歩行時に片足を引きずる状態でした。戦場で青竹の杖を常用したのもこの頃からのことです。なので、倒れる前の謙信が元気いっぱいだったみたいな表現はすべて嘘。

 謙信没後、景虎と景勝を前に群臣激論の様相でしたが、こういう事態になる以前、景勝は先手を打ってさっさと春日山城本曲輪(実城)を占拠してしまっているので(次回はその話になるようですが)、たぶんこんなこたあなかったでしょう。

 謙信逝去時点の景虎と景勝の邸ですが、ともに二の曲輪とする説があります。しかしながら、実城占拠で景勝が先手を打てたことや、中城様と呼ばれていたことなどから、実際に当時二の曲輪に起居していたのは景勝であったと考えられます。
 景勝の邸は当初景虎のために建てられ、その後景虎が御館に移ったために景勝に譲られた、と解釈したほうが自然で、したがって謙信逝去のときには、景勝は春日山城内に、景虎は城下の御館にいたと考えられます。そしてそう考えれば、景勝は越後守護上杉家の後継者として謙信と同居し、景虎は関東管領山内上杉家の後継者として上杉憲政と同居していたという図式になり、御館の乱の対立構造の本質が見えやすくなるわけです。
 なお、景虎が本曲輪入城を阻まれて二の曲輪から退去したとされていることについては、次回の感想で触れることにします。

 柿崎晴家が景虎派の有力者として描かれていましたが、晴家は景虎と交換で後北條家の人質になっていた時期があり、たしかにまったく縁がないとはいえない関係にありました。しかしながら、一応は子(前回書いたように弟説もあります)の憲家が家督を安堵されており、柿崎家が景虎派であった可能性はそれほど高くはないと思われます。むしろ、晴家は御館の乱直前か序盤に景虎派に殺害されてしまい、肝心なときに御館の後方(柿崎家の広大な所領は御館の東に位置していました)を遮断することができず、十分な軍功を担保できなかっただけではないかと思うのですが……。

 遠山康光が景虎を頼って越後に来たというのは大嘘です。康光は最初から景虎にしたがって来越した側近のひとりで、当初から景虎の重臣でした。

 そんなわけで、政争のバックボーンに取り入れるにはかっこうのネタが山ほどあるにもかかわらず、大河では「嘘も方便」な戯言をあれこれ並べるに止まり、イマイチどころかイマサンくらいのしまらない話にしてしまっているわけです。ああ、もったいない。
| 書いている人 | 23:13 | comments(3) | trackbacks(0) |

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